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秋の夜長は苦しむものとみつけたり。 [雑記]

右手に持った菜箸で油の中の唐揚げを突きつつ、一つ皿に取った鶏肉を弟が味見する。クッキングペーパーを取り出して飛んだ油を拭いて。網戸越しに見た外は赤とも青ともつかないような薄暗い色で、カーテンを閉めるか迷う。リビングに寝転んでプレステ2に対峙するもう一人の弟が、トルネコでドラゴンキラーを拾い喜ぶ。つけたばかりのクーラーはまだ部屋の蒸し暑さと戦う。電話が鳴る。口の中に鶏を入れたまま電話口に向かう弟の肩越しに見えたテレビから、二階堂のCM。

私は私のままで、ここにいる。

顔を赤らめた祖父、洗濯物をたたむ祖母、いつも帰りの遅い両親とその電話に応対する弟。ゴミ箱に投げ入れたクッキングペーパーは、卵の殻と一緒に白さを失っていく。そうして突然何かがこみ上げてくる。

 

と、情景を書き出してみたんですが。そう、”何故か”泣きそうになるって時があります。無常とか、多分冷静に分析なりなんなりをすると原因なんてものはすぐに分かるんでしょうけど、でもそれじゃあ面白くない。「ああ、自分はこれこれこういう理由で泣きそうになっているんだなぁ。」という所に何があるのか、それをもっと深く、深く自分をえぐってまで考えてみることが面白いんですよ。ただの無常じゃなくて、悔しさだとか自分のやましさだとか打算だとか、そういう部分を突かれているからこそ、泣きそうになるわけで。

秋はそういう時間なのかもしれません。


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blogとはどういうものなのか。 [雑記]

空が全然高くないんですよね。秋なのに。

こうやって、何も書くことがないということがどういうことなのかを考えたりしています。日常のちょっとした変化だとか、○○だと思ったなんて日記的なことだとか、目標とか、悩みをちょっと書き出してみたりだとか、そういうところをblogの本質とするか否かによって、たぶんblogは色んなタイプに分けられると思うんですよね。

で、日記を公開するということ、いや、日記じゃないんですけど、多分多くの人は日記的に付けているこのblogというもの、が、どういう意味を持つんでしょうか。自分の唄だとか、絵だとか、そういったものを世間に公開して、認知されたいという欲望はすぐに理解できるんですけど、blogに関しては別に自分の文章力を顕示したいわけでもないし。。。自分の感性なりなんなりをアピールしたいんでしょうか。世界観が世界感へと変化しつつある中で、自分の感じたことを記すことによる充足を、僕自身も得ているのかもしれません。「夏の終わりを私はこう感じた、どうだすごいだろう。」的な充足を。それはまぁ自己満足に摩り替えて差し支えないわけで。。。難しいですね。

で、おそらく多くのblogがそういうことになっていると思うんですね。顕示なんてのは別のところにあるとしても、そうやって自分の感性なりなんなりを確認する作業がblogでは行われているんではないかと!

んでも、「そこに何もない」ってのが多すぎるような気がするんですよね。そうやって書いて、それを見た人がどう感じるか、それは人それぞれだよね。って片付けるんじゃなくて、blogはそれを見る人がいるという前提に成り立っているはず。でもって、少なからず書いている本人も意識しているはずなのに、旅の恥は掻き捨てみたいに、「見てるのは見ず知らずの人だからいいや」なんて書き方が出来てしまっている。みっともなさの欠如まではいかなくても、自由に発言できることの錯覚みたいなのがblogの中で起こっているような気がする。

「今日の晩御飯はシチューです☆案外上手くできました!」なんて書いてあっても、別にその人の晩御飯が知りたいわけではないし、何をしただとか、そこに本質はなくて。そうじゃなくて、そこに何かしら見た人が感じられる、感じるべきものがないと、ただの交流ツールにしかならなくなるんじゃないでしょうか。もちろんその本人がいることは大事なんですけど。

そうするとやっぱり行き着くのが「blogは存在の証明につながる」なんてベタな答えなんですよね。ケータイが上手く人の心の隙間にはまったように、blogはそこからまた違う方向へと伸びた枝葉になっているのかもしれません。でもただの証明グッズじゃないと思うんですけどねぇ。その段階で書いていても、成長もしないし何も面白いことは起こらない。もちろん続けていくことで変化は起こるけれど、意識していないと気づけない。そういうことを考えるものとして、blogを書こうと思う。

なんてこと、別に誰も知りたくないですね。そうやって「こうあるべき」とすること自体がblogの本質を捉えられていないのかも!そうやって主張するだけで何か変わるのかなぁ。「結局なんでもいいんじゃん」というところを敢えて考えること。修行が足りませんね。


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都会は縦に。田舎は横に。 [雑記]

都会は縦に、田舎は横に、広いんですよ。

その、都会と田舎を行ったり来たりするなかで見えてきたもの、それが縦と横という人間の視界に訴えかけるものの差なんですよね。都会には圧迫感がある、とかそういう単純な狭さでの意味ではなくて。

 

「そびえる」の項にも書いたみたいに、それがそびえているかどうかは高さの問題じゃないんですよね。で、人がなんて狭い視界しか持っていないのかと痛感させられるのが都会と田舎という両極なんですね。どこをもって都会とするか、田舎とするかは置いておいて。

人がパッとその建物なり景色なりを見たとき、覆いきれる範囲はとてつもなく狭いんですよね。「見て」いなくても見えている部分もあるんですが、そこも含めたところで視界で追いきれる範囲なんてものは世界にくらべれば微々たるもので、人は結局のところ、そのシーンの(時間は関係なくしてですが、)世界を切っているんですよね。限界点を定めている、というか定まっていて。そうして追いきれないもの、それがどこにどうやってはみ出ているか、その違いが都会と田舎に現れてくるわけです。如実に。

縦、と書いたように、都会は縦に無限の広がりを持っているように感じられるんですよね。ある空間に突然自分が置かれた時、首を上に向けるという作業をしないと建物は追いきれなくて。首を上に向けたところで追いきれない場合も往々にしてあるんですが、そうやって縦の運動、縦のパノラマ性を都会は持っていて。そして横への広がりはというと、乱立する異物によってすぐに寸断、分断されてしまう。実際は横の広がりも追いきれていないにもかかわらず、そう感じさせない横への閉塞性を都会は持っているんですよ。地下鉄なんかでも、線路は暗闇へと無限に続いているように見えるんですが、それは結局駅という分断された場所の中での広がりであって、真の意味でのパノラマにはならなくて。コンクリートや鉄の塊のような物理的理由以外でも、都会は常に縦の広がりを持っているようです。上下へと成長せざるを得なくなったということでしょうか。

対して、田舎は横に追いきれなくなるんです。360度自分が回ればそれでいいわけなんですが、でも馬じゃあるまいし、すべてを視覚の中に収めるのは不可能です。高い建物がないから、じゃなくて、遠くまで見渡せることによって可能になる横への広がり、パノラマ性。寸断分断されることなく永続的に横に広がっていく景色は、写真なんかで到底収めることができないんですよ。

もはや定点カメラと化した自分のデジカメに映るのは、それこそ分断された映像なんですけど、でもそれをリアルに見たとき、空間を感じた時、その横への広がりは全く、全然追いきれない。時間とか光とか、そういう環境にもよるけれど、一回的な広がりみたいなものを瞬時に感じ取れて、でもって広がりを終えないことに「苦笑い」して。田舎は横にそびえていると言えるかも知れない。

いやでも、そんなに差はないんですけどね。

強制力みたいなのは、ある種屈するべきなのかもしれないですね。


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色と季節と子供達と。-愛知万博再び

だらだらと書いておりますが、万博二日目です。もう8月の11日なんてはるか昔のように感じられますね。夏の終わり真っ只中に夏の終わりを謳ってもしょうがないんですが。

スタートダッシュも決められないほどの人で埋め尽くされた北ゲート。やっぱり西ゲートから来たほうが良かったんじゃないかと思うほど、進まない行列に埋もれていきました。9時を過ぎてもゲートインできずもはや目当てのHITACHI館は夢と消えるのか!そんな状況の中、父は走ります。しかし9時10分でもう日立館の整理券は配り終わってしまったとのこと!前日に人が殺到したため、二回目の整理券が無くなってどうとかこうとか…

要は早い者勝ちのようです。なのでとりあえず別の所を見に行くことに。ワンダーサーカス電力館に決定して、もう慣れた待ち時間を過ごします。

定期的に霧をふりまいてくれます。グローバルループの道々でも、やはり夏の暑さに水はありがたいものです。こういうところが愛なんでしょうか。まぁ、待ち時間をなくしてくれたほうが愛なんですが。

電車のような乗り物に乗り、巡るは凝縮された万博空間。地球/宇宙に始まり、四季や日本のお祭りなどが続きます。教育的なものなんでしょうか。それほど記憶には残ってないですねぇ。。。

(写真撮影禁止だったんですが)一瞬だけ青が輝いた瞬間。レンズに光が刺さったとでも言えばいいのか、そんな感じの写真です。「本当の黄色は、街にはない」の言葉通り、人工的な青なんですが。人工的に青を作れているということ、それが自然とは違っていて、”不自然”な青だったとしても、それが誰にとってどういう意味を持つのか、そこにはほとんど言及されていないんですよね。「自然の青っていいよね」、「これは不自然な青だ」と言えていることが、いかにおかしなことか。自然か不自然かは人間が決めることで、その枠組みを作ってから自然を意識するなんておかしいんじゃないのでしょうか。そもそも自然な青に近づけなければならない理由が「不自然だから」なわけで。

そういう矛盾を考えなくても、これは青いと言えればいいんですけど。分かりにくいなぁ。。。


夏の終わりはどうしてこうも早く進むものなのか。 [雑記]

9月に入った瞬間、人は秋になる。世の中は秋になり、自然の変化とはかけはなれて、人は変化する。まるでその秋に間に合わせるかのように、まるで間に合わせなければならないかのように、夏の終わりは速度をどんどん上げてゆく。間に合わせなければならないのは何故か、誰か。9月1日、いっせいに紅葉が赤くなり、いっせいに鈴虫が鳴き出し、空は高くなり風が冷たくなる。実際そうはならないけれど、人がそうさせる。そうやって人は季節を作り上げてきた。

まるで自然が急いでいるかのように、夏の終わりは過ぎてゆく。海で泳いだ記憶だとか、森で虫を捕まえた記憶だとか、そういう部分に留まらず、思い返すだけで何事も夏の出来事になる。そうやって人は夏をもう一度消化する。

デパートの洋服売り場で感じる季節の移り変わりと、肌で感じる季節の移り変わり、それは劇的に違っていて。何故だかわからないけれど、人は夏を整理しようとする。もちろん、夏休みというものが与えている影響は大きいけれど、それだけに起因しない何かを、人は整頓しようとする。終わっていくこの夏は一度しかない、そんなことを考えることが夏の終わりを早くさせる。

夕立が続き、そしてセミの声が変わり、次第に夏は遠のいていく。だんだんと日が落ちるのが早くなる、これが夏の終わりを早く感じさせる最も大きなことかもしれない。暮れる、そして明けるというサイクル、それは決して変わることはないけれど、一晩で夏と秋を分け隔てる。これほどまでに季節の変わり目がハッキリしているのは夏の終わりしかない。

くるりの「Superstar」のように、残り少ない夏の日の中で、僕たちは何を思い出せるのか。忘れたことを、思い出せるのか。忘れていなくとも、人はそういう作業をしなければ、夏の終わりは過ごせない。そしてそういう作業をしようとすると、夏は過ぎてゆく。

 

夏の終わりはあなたをずっと待っている。そうしてあなたと共に、早く、進んでいく。


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リモコンチャンネル [雑記]

テレビのチャンネルを変えたい、しかしリモコンが少しはなれたところにある。

ちょうどいいところにお父さんがいるではありませんか。

そんな時あなたは何と言いますか?

「お父さん、ちょっとリモコン取ってー。」

と言うと思います。まぁ別になんてことないんですが、

どの家でも大体そうですよね。

我が家はそういう時こう言います。

「お父さん、ちょっとチャンネル取ってー。」

リモコンと言う言葉が我が家を飛び交うことはあまりありません。

ちょっと○○、チャンネルどこやった?

ちょっと音大きいなぁ。チャンネル取ってー。

もう、チャンネルこんなとこ置いとかんとき!

もうそうやって育ってしまったからには、今更リモコンなんて言えなくなって。チャンネルを変えるものとしてのチャンネル。行為そのものが代名詞になるみたいな。こんなの我が家だけですかね。

それが過剰になると面白くて、リモートコントロールするもの全般をチャンネルと呼ぶようになるんですよね。そうして我が家では日常的に「ちょっと、クーラーのチャンネルは?」というセンテンスが巡っています。


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大地の塔と、頭の中と。-愛知万博再び [旅々]

こうやって写真に撮ることがいかに無意味かがよくわかる写真です。

大地の塔内部、やっとの思いで入ったその中は、天井からの歪められた光だけ、もたれかかるために作られた壁のクッションや手すりなど、リラックスして上を見られるように配慮されているみたいなんですが…、やっぱり首が痛いんですよ。

上から”だけ”光が降り注ぐという体験を、よくよく考えるとあんまりしたことがないような気がして、何となく洗脳されていくような変な感じもしたんですが。元々、家屋の電気なんてのは上についていて、私たちは日常的に光を上から浴びているはずなんですが、それを感じることはあまりなくて。「周りまで明るい」から、上からしか光が当たっていないにも関わらず全体に光が溢れているように思えるんですよね。しかも人は寝転ばない限り、あまり上を向かない。心理学を勉強していたという先生に聞いた話で、「では皆さん天井を見てください。もう少し、そう、もう少し長く…。」そういって、「ほら、あなたはだんだん頭が重く感じてくるでしょう。」という催眠術があるそうです。考えてみれば首が痛くなって頭が重くなるのは当たり前で、上を向けば必然なわけです。それに気づかないと、「あ、ホントだ。重くなってきた」なんてことになって…。まぁ多分なるわけないんですが、でもそうやって人を「あ、そうなのかもしれない」と思わせるところに、催眠術の意味なり本質なりがあると思う。あなたは蝶々です、と言ったときに、「しかたない、蝶々のマネでもしてやるか」と思わせることが催眠術なんだと!

そんな術にかかりそうなくらい、上を見上げてケータイ電話のカメラを掲げる人だかり。一角には鏡が用意されていて、上を向かなくても鏡に反射した天井を見ることができるようになっていたんですが。込み具合からはなんとも言えないですね。鏡を見て満足しちゃいけないでしょ。

こうやって、写真という時間を切るものに(ホントは切っていないと思うんですが)、変化する万華鏡なんていうものを映すこと自体が確かに無意味なことなんですよね。確かに首は痛いですが、それに相当するだけの圧倒的な光が、見る人にそそいでくれます。一度も同じ絵が映ることはない、二度と同じ絵を見ることはできない、そういうところじゃなくて、そうやって変化していること自体を見るのがこのパビリオンの本質だと思うんですよね。「私が見たこの万華鏡の形は、もう二度と作られないんだ。」じゃなくって、「二度も三度も作られるかもしれないけど、そうやって変化していくということを私は確かめた。」という事実を、もっと大切にしなければいけない。それが何となく、存在の証明的なものの先にあるものだと思…いますよ。

鏡についてもまた色々考えられそうですね。要は人はそこに何を見ているのか。天井には一つの絵しかないはずなのに、それを反射させることで幾通りもの絵を作り出すのが万華鏡。でもやっぱり絵は一つで。なんとなく、何がなんだか分からなくなる、そういう空間を、この大地の塔は作っているのかもしれません。

なんて書いている時点で、洗脳されてしまっているのかもしれませんね。


そびえるということ、大地の塔。①-愛知万博再び [旅々]

そびえるということ、それはいろんな意味で人を圧倒する。高くて、顔を上に向けなければ頂上が追いきれない、それだけで人は何らかの参加を促されるわけなんですが、ただ高いだけではいけなくて、「そびえ」なければいけないんですよね。そうして圧倒することが、そのものの存在意義になる。逆に言うと、圧倒できなければ、それは機能性以外で存在する理由を持てない、はず。

まぁ、こうして画像におさまって、拡大縮小されてしまう時点であまり「そびえ」ているとは言えないかもしれないんですが。大地の塔、頂上から壁を伝って流れ落ちる水が風にあおられて、雨と間違うような降水でした。待ち時間1時間、上から定期的に落ちてくる水は暑さをしのいでくれて。それにしても、大きいということと、そびえているということ、その二つの感覚を味わうことが、まずこの大地の塔の意義なんじゃないかと思いました。中が万華鏡になっているとか、プロデュースしたのが誰だとか、そういうところじゃなくて、今ここに視界に収まりきらない「おおきなもの」がそびえたっているということが、一つの大きな体験になるんじゃないかと。辞書的な意味では必ずしも「そびえる」と解釈されないかもしれませんが、自分自身の語彙の中でそびえるという言葉が出てきたのは確かです。

また、なんだかよく分からない黒い角ばった建物がある、というだけでも、もうこの塔はそびえているのかもしれません。

一瞬だけ光の筋が塔の側面を斬った、その。

あの嶋本昭三さんの「奈良の大仏が頭に浮かんだ時点で、それはもう既に跳躍している」ということと、「そびえている」ということ、多分それは全く別の方向にあって。でも、こうして人に「見上げる」ということを強要させている点ではやっぱりこれも一つの芸術と見ていいんじゃないかな…と思うんですけどねぇ。

余談ですが嶋本さんの「百万円ショップ」が今オープンしているみたいですね。

例えば巨大なプリンなんかを考えると、それはもう既に視界に収まってしまっていて、むしろ材料の段階で人間の視界の範囲を超えていないんですが、でも完成したものは、「そびえている」。こう言うと分かりやすいかもしれません。巨大なオムライスだとか、パフェだとか。形あるものばっかりですが、形の無いものも。とすると、そびえるというのが、自然と「畏れ」なんかに繋がっていって面白い。

なんて考えているうちに、入り口に着いたわけです。

姿形もないのにそびえているもの…、なんでしょう。昔ふられた人とか?歯医者さんとか?色々ありそうですね。そういうあなたも、誰かにとってそびえているのかも!そびえている側は無意識なのか!無為なのか!


甲子園という空間③ [スポーツ]

キャプテン林君のアップと、その後ろの夏空が途方もなく輝かしかったですね。ヒーローインタビューで、「最後に皆さんに一言」と言われた後、二、三度ついた呼吸が、全てを集約しているような気がしました。

 

 甲子園の持つドラマ性、それを余すところなく見せてくれるのが実際の中継で、良いか悪いかは分かりませんが誇張して見せてくれるのが熱闘甲子園で。実際の試合も熱闘甲子園も見てしまう人、熱闘甲子園しか見ない人、両方見ない人…ときて、実際の試合しか見ない人っているんでしょうか。もちろん、実際の試合は先に書いた「余すところなく」という点で、それだけで楽しめるものなんですが、やっぱり切っても切れない関係が出来ていると思うんですよね。

無論、「結果」を知ることを求めて見るのが一つの意思でしょう。しかしそれだけなら5分間のニュースでも十分なはず。では人はなぜあれほどまでに熱闘甲子園を見てしまうのか。やっぱりそれはスポーツのドラマ性に尽きるんじゃないでしょうか。と言ってもそのドラマ性はハイライトに見られる「瞬間の輝き」ではなくて、過程を踏んだ中に見えてくるドラマ性なんですよね。もちろん実際の試合を見るだけで感じられればそれが一番なんですが、それだけでは知りえない情報を熱闘甲子園は提供してくれる。よくよく考えると、誇張されているのはハイライト部分だけで、それ以外のことは全て忠実に伝えられているだけかもしれない。人が実際の試合で見た場面、選手の背中の記憶に、午後11時から次々と提供される情報を投影して感動しているのかもしれない。

野球じゃなくてもそう、瞬間的な輝きと、瞬間的に輝くまでの影、その二面両方共に人は、感動する。

知り合いでもない、同じ地域でもない、それなのに目頭が熱くなる。そんな不思議な体験を、甲子園はさせてくれる。

はてさて、もう夏も終わりですね。


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野球場 隣は何を する人ぞ [スポーツ]

その、野球場で何をするかは人それぞれなんですが。野球場という娯楽施設をどうやって人は消費しているのか。

俗に言う天王山、8月は10日の阪神タイガース×中日ドラゴンズを観戦しまして。万博一日目の夜にナゴヤドームというハードなスケジュールの中へとへとになりながら見ていたんですが。前日に負けてしまった阪神タイガース、首位陥落の危機/中日の影が0.5ゲーム差にまで迫ったという、何ともいい日のチケットを取っていたなと、結果的にそうなったわけです。

ドーム球場はある意味快適で、クーラーもついていて暑くないし、きれいだし、でもやっぱり甲子園での高校野球と比べると、少しさめざめとした印象を受けざるをえないんですよね。野球観戦に来ているんですけど、どこかこう、ちょっと高貴な、高貴じゃないか、「野球を見に行こう!」って言って見に行く野球じゃない気がするんですよね。空気に直に触れている感覚であったり、こういうとロマンティックですが選手と同じ空の下で空間を共有しているみたいな、そんな体験なりを私たちは望んでいるんじゃないんですかね。そういう意味では、ドーム球場はテレビの延長でしかない気がするような…、言いすぎかもしれませんね。でもやっぱりそれに近いだけの差は、屋根の無い球場とドーム球場の間に横たわっていると思います。やっぱり、みんなと一体になって、選手とも一体になって、頑張って大きな声を出して勝とうとするのが、楽しいんですけどね。ある種のお祭り性、テレビの前で自分ひとりで盛り上がっていてもしょうがないですから、皆で盛り上がるという非日常を経験しに人は球場へ足を運ぶのかもしれない。サッカーなんかでよくある「駅前に大型ビジョンが設置され…」というレベル、そのレベルでの観戦がドーム型球場の持っている味、じゃないかと。

もう一つ、これはもう個人の野球の楽しみ方なので何とも言えないんですが、隣で阪神タイガースを応援しに来ていた人を少し観察していると、イニングの終わるたびにケータイ電話を取り出して何やら読んでいるんですね。で、イニング毎に逐一チェックするので気になって横から見ていると、「阪神タイガース実況掲示板」なんてものだったんですね。何なんでしょうこれ。

てっきり他球場の結果を見たりだとか、友達とメールしたりだとかだと思っていたんですが…。掲示板には「金本キター!」「福原やばい!」なんて無意味な叫びがあったりするだけなんですよね。書き込んでいたのかは分からないですが、そこに何の意味があるんでしょうか。結構考えたんですけど分からない。球場に来て、同じ球場で見ている人と共鳴したいなら、一緒に応援して一緒にガッツポーズして一緒に落胆すればいい話で。あるいはケータイで外の世界と繋がって「今球場にいる自分」を確認したいのかもしれない。とすると、それこそさっき書いたようなテレビの延長としての自分が球場という空間にいるだけになってしまう。いやはや隣は何をする人ぞ。

 最後に、これはもっと仕方が無い。後ろの席の人が精一杯応援していらっしゃったんですが。「誰もお前を止められぬ~♪桧山~よ突っ走れ~♪」とか、選手のヒッティングマーチを大声で歌って下さるのは大変良いのですが

 

音痴なんですね。

 

「鳥谷た~か~しぃぃぃぃ~」とか

「ら~いとすたんどへ~ぇぇぇ」とか

ひどいんですよね。

いやはや、野球場、隣は何をする人ぞ。

でもやっぱり野球はいいものです。簡易オリンピックなんて言うと怒られそうですが、ある種の身体拡張と空間共有をしに、野球場へ行こう!


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