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大地の塔と、頭の中と。-愛知万博再び [旅々]

こうやって写真に撮ることがいかに無意味かがよくわかる写真です。

大地の塔内部、やっとの思いで入ったその中は、天井からの歪められた光だけ、もたれかかるために作られた壁のクッションや手すりなど、リラックスして上を見られるように配慮されているみたいなんですが…、やっぱり首が痛いんですよ。

上から”だけ”光が降り注ぐという体験を、よくよく考えるとあんまりしたことがないような気がして、何となく洗脳されていくような変な感じもしたんですが。元々、家屋の電気なんてのは上についていて、私たちは日常的に光を上から浴びているはずなんですが、それを感じることはあまりなくて。「周りまで明るい」から、上からしか光が当たっていないにも関わらず全体に光が溢れているように思えるんですよね。しかも人は寝転ばない限り、あまり上を向かない。心理学を勉強していたという先生に聞いた話で、「では皆さん天井を見てください。もう少し、そう、もう少し長く…。」そういって、「ほら、あなたはだんだん頭が重く感じてくるでしょう。」という催眠術があるそうです。考えてみれば首が痛くなって頭が重くなるのは当たり前で、上を向けば必然なわけです。それに気づかないと、「あ、ホントだ。重くなってきた」なんてことになって…。まぁ多分なるわけないんですが、でもそうやって人を「あ、そうなのかもしれない」と思わせるところに、催眠術の意味なり本質なりがあると思う。あなたは蝶々です、と言ったときに、「しかたない、蝶々のマネでもしてやるか」と思わせることが催眠術なんだと!

そんな術にかかりそうなくらい、上を見上げてケータイ電話のカメラを掲げる人だかり。一角には鏡が用意されていて、上を向かなくても鏡に反射した天井を見ることができるようになっていたんですが。込み具合からはなんとも言えないですね。鏡を見て満足しちゃいけないでしょ。

こうやって、写真という時間を切るものに(ホントは切っていないと思うんですが)、変化する万華鏡なんていうものを映すこと自体が確かに無意味なことなんですよね。確かに首は痛いですが、それに相当するだけの圧倒的な光が、見る人にそそいでくれます。一度も同じ絵が映ることはない、二度と同じ絵を見ることはできない、そういうところじゃなくて、そうやって変化していること自体を見るのがこのパビリオンの本質だと思うんですよね。「私が見たこの万華鏡の形は、もう二度と作られないんだ。」じゃなくって、「二度も三度も作られるかもしれないけど、そうやって変化していくということを私は確かめた。」という事実を、もっと大切にしなければいけない。それが何となく、存在の証明的なものの先にあるものだと思…いますよ。

鏡についてもまた色々考えられそうですね。要は人はそこに何を見ているのか。天井には一つの絵しかないはずなのに、それを反射させることで幾通りもの絵を作り出すのが万華鏡。でもやっぱり絵は一つで。なんとなく、何がなんだか分からなくなる、そういう空間を、この大地の塔は作っているのかもしれません。

なんて書いている時点で、洗脳されてしまっているのかもしれませんね。


そびえるということ、大地の塔。①-愛知万博再び [旅々]

そびえるということ、それはいろんな意味で人を圧倒する。高くて、顔を上に向けなければ頂上が追いきれない、それだけで人は何らかの参加を促されるわけなんですが、ただ高いだけではいけなくて、「そびえ」なければいけないんですよね。そうして圧倒することが、そのものの存在意義になる。逆に言うと、圧倒できなければ、それは機能性以外で存在する理由を持てない、はず。

まぁ、こうして画像におさまって、拡大縮小されてしまう時点であまり「そびえ」ているとは言えないかもしれないんですが。大地の塔、頂上から壁を伝って流れ落ちる水が風にあおられて、雨と間違うような降水でした。待ち時間1時間、上から定期的に落ちてくる水は暑さをしのいでくれて。それにしても、大きいということと、そびえているということ、その二つの感覚を味わうことが、まずこの大地の塔の意義なんじゃないかと思いました。中が万華鏡になっているとか、プロデュースしたのが誰だとか、そういうところじゃなくて、今ここに視界に収まりきらない「おおきなもの」がそびえたっているということが、一つの大きな体験になるんじゃないかと。辞書的な意味では必ずしも「そびえる」と解釈されないかもしれませんが、自分自身の語彙の中でそびえるという言葉が出てきたのは確かです。

また、なんだかよく分からない黒い角ばった建物がある、というだけでも、もうこの塔はそびえているのかもしれません。

一瞬だけ光の筋が塔の側面を斬った、その。

あの嶋本昭三さんの「奈良の大仏が頭に浮かんだ時点で、それはもう既に跳躍している」ということと、「そびえている」ということ、多分それは全く別の方向にあって。でも、こうして人に「見上げる」ということを強要させている点ではやっぱりこれも一つの芸術と見ていいんじゃないかな…と思うんですけどねぇ。

余談ですが嶋本さんの「百万円ショップ」が今オープンしているみたいですね。

例えば巨大なプリンなんかを考えると、それはもう既に視界に収まってしまっていて、むしろ材料の段階で人間の視界の範囲を超えていないんですが、でも完成したものは、「そびえている」。こう言うと分かりやすいかもしれません。巨大なオムライスだとか、パフェだとか。形あるものばっかりですが、形の無いものも。とすると、そびえるというのが、自然と「畏れ」なんかに繋がっていって面白い。

なんて考えているうちに、入り口に着いたわけです。

姿形もないのにそびえているもの…、なんでしょう。昔ふられた人とか?歯医者さんとか?色々ありそうですね。そういうあなたも、誰かにとってそびえているのかも!そびえている側は無意識なのか!無為なのか!


愛と時代と過飽和と。-愛知万博再び [旅々]

そこに愛はあるのか。

木をカッティングしてモリゾーとキッコロを作る…、これは果たして自然を大切にしているのか。モリゾーもキッコロも、まさか自分が木で作られるなんて思っていないでしょうに。これ本末転倒じゃないですか?あどけないキッコロと、何を考えているのか分からないモリゾー。「万博自体、愛知県の山を伐採して作ったんじゃないの?」なんて声があがるくらい、認知度や自然の叡智なんてテーマも認識されていない状況で、万国博覧会なんて言えるんでしょうかねぇ。特に日本人。

何もかもを発展させなければならなかった時代の万博と、

何もかも発展しきって過飽和になってしまった時代の万博。

わざわざ木を植えて、カッティングしてキャラクターマスコットを作らなければいけなくなったということが意味するものを、もっと敏感に感じなければいけないはずなんですよ。

で、足元は案外お粗末な作りなんですよね。


磁力と家族と超伝導と。-愛知万博再び [旅々]

そもそも何故、このJR東海のパビリオンは空き気味なのか。HITACHI館やTOYOTA館に足を運ぼうとすると必ず目に付くこの人のいない状況。待ち時間すら表示されていなかった超伝導館に、また入ることにしました。僕は初めてじゃないですが、まぁそこはそれで。家族にあの愕然とする感じを味わってもらいましょう。

「ただ何となく”すごそう”ならいい」なんてことが往々にして言われる。でもそれはやっぱり恥ずかしいことなのかもしれない。一種の娯楽として見るには確かにいいかもしれないけれど、そうして発表している人も、それを見て「なんとなくすごそう」と思っている人も、第三者的に見ればやっぱり両方共ばかばかしいように感じられる気がして。でもそうやって「第三者的に見ること」がいかに重要で”ないか”、結局人は一人称で生きている部分もあって、そこが強調されると独りよがりも立派な側面なのかもしれない。独りよがりできるということがいかに素晴らしいか。かといって人の迷惑を考えないのはよくないんですけどね。

お姉さんは前回よりもアクティブです。

励磁完了☆再びあなたに超伝導(意味不明)

自分で自分の作品を「何となく凄そう」と思えたら、傑作か病気かのどちらかなんですよね。でもその場合の病気も、傑作であって。


月と緑と三菱と。-愛知万博再び [旅々]

6月1日水曜日がいかに空いていたか、思い知らされることとなった8月10日。スタートダッシュも何も、ゲートインに時間がかかっているようではもう企業パビリオンは諦めざるを得ないかな…と思っていたところ、父はどうしても日立館が見たかったようなんですが、どうせ180分待ちくらいだろうと諭して三菱へ。案の定待ち時間30分とそれほど長くない様子で列に入ります。15分待ちでも「長いな、どうしよう」と言っていた6月が夢のように思われます。幸い太陽も照りつけず、雨が降りそうな降らなさそうなお天気で。

もしも南極の氷が溶けたなら、ちょっとその辺の国が沈むくらいでしょう。ちょっと自然が変わるくらいでしょう。ちょっと大事な遺跡だとかが水にさらされるくらいでしょう。ほんのちょっとだけ、地球が変わるくらいでしょう。

人間という生き物も含めての地球が、46億年も変化してきたんだから、それが変化することに何らおかしい点は無い。人間は何のために環境を守るのか、それは結局人間のためでしかない。もう少し言うと、それを人類なんていうよく分からないカテゴリに分類すること自体がおかしい。人類皆兄弟!ってそんなはずはない。少なくとも、必死で南極の氷を溶かさないようにと叫ぶ人、氷が解けることによって住処を奪われる動物が出てくることを危惧する人、そんな人たちと、僕は違う。”そういう点で”、平気で環境破壊をしてきた人々と上記の保護団体的な人々は同じ人類かもしれませんけど。

もしも月がなかったら、そう仮定したときに人の中に芽生える恐怖感、そこから「月があるにもかかわらず怖い地球」というものへと視点を上手くシフトさせるこのパビリオン、上手くやったなぁ、というのが印象です。

わかまる君の哀愁漂う表情、極めてロボット的な、いやロボットなんですけど、敢えてロボロボしくしたような表情が、いい味出してます。

地球君と月君が彼らの生い立ちについてお話します。ちらっと上を見た感じ、照明が高校演劇みたいで…。スクリーンに映された映像もなんとなく…。しかししかし、このパビリオンの一番の見所は、この次の部屋でした。

映画館のように巨大なスクリーンと規則正しく並んだ椅子、上下左右深々と闇が広がります。もしも月がなかったら、人類は誕生していなかっただろう。そんな仮定をもとに作られたCG映像は圧巻の一言。内容はなくて、ただ映像が凄い。まるでスターウォーズのようだ!と言うと皮肉っぽいですが。ナメック星を思わせる荒れた大地に動き回る爬虫類たち、月がなかったらこんな星だったのよと言いたいのでしょうが、そんなことは微塵も感じられないまま、ただ凄いCGが流れます。そしてスクリーンが稼動して、前方だけだった映像が左右、上方へと広がっていきます。視界では収まりきらないくらいに広がったパノラマは、無意味な感動を呼ぶには十分すぎるくらいでした。

でも、それは映像の凄さであって。スクリーンがどうとか、映像がきれいだとか、もちろんCGが凄いのは確かなんですけど、やっぱりクロアチア館の映像にあった非言語的な感動には及ばないんですよね。「月の大切さ」が、いつのまにか「地球の大切さ」にすり替わり、そして「人類の大切さ」へとまたすり替わってしまったように感じられて、少し不安になりました。

人間と共に生きなくても、地球は回る。


風と家族と青空と。-愛知万博再び [旅々]

はてさて2回目の万博は家族旅行ということで。朝の6時に家を出発し長久手到着は9時前、車を止めて会場までの無料シャトルバスへと向かう最中、誘導のアナウンスから面白い言葉が聞こえてきました。

「本日は史上最高の来場者が予想されます。ご来場の皆様くれぐれも…」

なんですと。。。

とまぁ、暑い暑い愛知へとまた足を運んだわけでして。11日12日の二日間、学んだことは「万博の本質は待ち時間にある」ということ。そして。

また何日かかけて書きたいと思います。3回目へむけて、復習といきますか。


ギターは恋人 ~歌詞と音の関係~ [旅々]

ギターは恋人、とはよく言ったもので。
帰りの夜行バスの中、狭い狭い椅子の上でギターと抱き合うこと6時間、嫌と言うほど自分のギターのくびれを確認した感じです。体重が軽いのだけが救いでしたね。

何年も聞き続けている曲(といっても20年足らずしか生きていない若造がですが)は、歌詞で聴き続けていることはない気がするんですよね。もちろん最初にはそこに歌詞があって、いい歌だなぁ…みたいな安易な解釈があって、そして薄っぺらい音楽だな…と消えていく。特に邦楽の場合はまったくもってその通りで、音の中に何かしらが含まれていないとそれはただの「パターンの繰り返し」にしかなり得ないんですよ。

聴き過ぎて飽きた、というのは、聴き過ぎ”られる”だけの深さがその歌詞なり音なりにあったというだけで、永続的なものではなくて。永続的な音楽があるかどうかは別として、半永続的な価値を自分の中に見出せるのは「歌詞」ではなく「音」であるはず。音楽の場合においては、ですが。

歌詞に感動したなら歌詞カードを何度も読み返したり、手帳にでも入れていつでも持ち歩いたりしていればいい。それは音楽じゃない。しかしそれが悪いことだとは言わない。音から生まれた歌詞かもしれないけど、それはそれでその人の中に一つの価値を作ったと言う点では、もはや曲を超えている。

でもそんな事を言うと「音楽として聴いて初めて感動する」なんて人が出てくる。歌詞を理解しながら聴くということは可能なんでしょうか。歌詞の意味は前段階で理解しておけば、それでいいんでしょうか。音を聴くということと歌詞を聴いて理解すること、おそらくそこはもう曖昧で、ほとんどの人がそれぞれにこなしていて。

音と歌声と歌詞、もちろん現場との情報のロスはあるけれど、受容する側は必ず歌詞と結びつけてしまう。別々に受け取っているものを結びつけて発散する、すなわち歌うことが、本当の意味での音楽の消費なのかもしれない。。

とは言うものの、やっぱり最後に残るのは音だけになっていって。BGM化していくのは否めない。音楽と歌詞の入り混じった、「パターン化されたアットランダム」。人はその中にラジオに似た安心感を覚える。聴き続けられる曲、それはその中のメッセージだけによるものだとは一概に言えないのかもしれない。

 

好き嫌いは別にして、歌詞だけで終わってしまっている曲が多すぎる気がする。自分の中の湧き上がるメッセージを音に乗せて伝えたい!それは分かるけど、湧き上がるものを「音楽」で発表する意味を、音楽でなければ発表できないというくらいの意義を、曲なり何なりに入れて欲しい。というか入れなければならないはず。C-F-G-Cを繰り返すだけでは、メッセージなんか伝わらない。

音を紡ぐのか。言葉を紡ぐのか。


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愛知万博とよく分からないものと私 [旅々]

忙しさに加えてメンテが多いso-netさんで。

万博その他編でございます。

まず一つ目。名古屋駅で見つけたペットボトルです。

キャラドリ!だかなんだか知らないですが、400円もします。これ。ライセンスビジネスって素敵!買った自分も素敵!

あと、やっぱり六月の初めとはいえ暑さに負けてダウンしてしまう人も多々いらっしゃったようで、そこかしこで寝ている人が。決定的瞬間なんてものが撮れてたらいいなぁ。

奥の子供たちとの対比が楽しいですね。因みにこれまだお昼前なのですが…。万博興味なしですか。お父さんも大変ですね。他にもやっぱりご年配の方々はお休みになっていらっしゃいましたね。ぽかぽか陽気が眠気を誘うんでしょうかね。

若者ならではの力技!いい体勢で寝てらっしゃいます。なんか催眠術でもかけられたみたいですね。がくっと。眠いなら来るなって。

そしてそして、記念撮影もたくさんありました。外国人の方々がたくさんいるので女子高生なんかはきゃーきゃー言いながら写真を撮ってもらいに走っていましたね。イタリア館にて。

援助交際ですねー。後ろから撮ると面白い。あと背高いですね、ホント。修学旅行が万博ってのはどうなんでしょ。

ヨーロッパパビリオンの中央広場らしき所でショーが。何時間かごとに区切って色々行われているみたいですねー。時間が近づくと人が徐々に集まり始めます。これはその中の…なにちゃんだったかな…よく分かりませんがこんなことをしていました。よく分かりませんが。

同じくよく分かりませんが。顔が不安そうなのはわざとですか?

 

長かった万博ですが、こんな感じです。まだちょっと書きたいんですがそれはまたの機会に。賛否両論ありますがやっぱり行ける人は行った方がいい気がします。迷っているなら行きましょう!って感じで。上手く時間を使おうとか思わないで、単純に楽しく見て回ろうとすればそれなりに楽しいはずです。一つでも「これ」と決めて行けば必ず見られますし。

万博の回し者じゃないですが、いいですよ、万博。

もう一回行こうと思います。一日じゃ無理だったなぁ。。。結構回った方なんですかね。数をこなすのが目的なんて良くないですが。

帰りの東横線にて、朝5時頃です。

芸術的にV字型を描く二人を。喋っては寝て、喋っては寝て、起きるたびにI字型に戻るんですが、また話題が尽きるとV字型へ。見ていて微笑ましかったです。こういうところにもっと、何かあるんですよね。


愛知万博とメキシコ館と私 [旅々]

そしてそしてメキシコ館。一ヶ月もかかってしまいました。

テンガロンハットは売っているのでしょうか。時計は午後5時を指そうとしていました。待ち時間…と言うよりも、もう人自体が少なくなってきていて、まぁ当たり前なんですが、祭りの後が近づきつつありました。曇り始めた空と共に長い一日も終わりを…なんて。

もともとはそんなに期待をしないで入ったメキシコ館だったんですが。お土産コーナーへと足早に進んで行こうかと思っていたくらいだったのですが、これがこれが思いの外素晴らしい!クロアチア館とメキシコ館、この二つが今回の万博のツートップだったと言ってもいいでしょう。と言ってもほとんど趣味、嗜好の域なんですが。

「いいつたえ」であったり「小唄」であったり、「ある商人の言葉」なんかであったり。そういう言葉が大好きなんですね。なんていうジャンルになるんでしょうか、中世っぽい?伝記、ファンタジー…でもなくて。科学的手法も何もない時代に人々が自分達の手で掴み取った概念的格言。それが何年もの時を越えて今の人間を的確に突く。こういう過去と未来の共通点が(こういう言い方はおかしいんですけど)意味の錯覚を生んで、とてつもなく面白くなる。上の言葉なんて最高じゃないですか。「海は波によって測られる 空は翼によって 私たちは涙によって」

「太陽は余りにもジャガーに似て、ひそやかに通り過ぎる」

こういう抽象的でもあり現実的でもある言葉に、惹かれるわけですよ。「余りにも」とかが心をくすぐるのかなぁ。訳による部分もかなり大きいんですけど。言葉はそういう錯覚で、人の心をくすぐります。

とにかくよかったメキシコ館。ただ見るだけなんですが、ここにはやっぱり他のパビリオンと違ってパワー、プンクトゥム的なものがありました。全然異空間になっていて、体は限界を迎えつつあったんですが、疲れはどこへやら。万人にオススメというわけではないですが、前述のような世界観が好きな人は行って損はないでしょう!感想お待ちしています。

テンガロンハットは、売っていませんでした。どんまい。

後2回…くらいとしておきます。


愛知万博とインド館と私 [旅々]

もう6月終わっちゃいますね。ということで、足早にインド館。

ゴンドラから北ゲート付近に降り立ち、ちょっと東の北中南米?館にあるメキシコ館を目指して歩き出します。すると見えてきたのがアジアのあの胡散臭い感じ。インド館がまるで手招きをしているようで、ここは入るしかないな…と、足を踏み入れます。もう日も傾き、人も家路につき始めたので待ち時間もなく入ることに。

いかにもインドな感じ満載!こんなものがいくつも並んでいます。って言うと怒られますか。インドの人の「木」に対する観念がつらつらと展示されていて魅力的でしたし、良くも悪くも意味不明なインドの面白さがとても楽しかったです。前半はインド映画みたいな「うぉー!」って盛り上がりはないですが、静かに息づくインドの精神がよく分かるように示されていて、疲れた体にやさしかったです。関係ないか。実は立ってるのがやっとだったんですよね。ホント歩きっぱなしなので、普通の人はこんなに無理してまで周らないでしょう。。。

その中でやっぱり目を引くコイン池。トレビの…ってローマですよね。なんでまたインドでこんなことしてるんでしょう。お賽銭と同じ感覚なんでしょうか。やっぱり投げたら帰って来られるんでしょうか。3つ投げたら離婚できるんでしょうか。やっぱりインド意味不明。

ファッションなんかも展示されていまして。先端技術が有名なのはもう周知ですが、やっぱり10億も人が居ると、それだけ天才の数も多くなるんでしょうね。中国とかも。アメリカなんかは違うと思うけど、他の国はもうそれなりに天才のカードを使ってしまったような気がして。日本的努力の天才がまた生まれないのかな。岡本太郎さんの話じゃないですが、別に上手い下手じゃなくて、そういう次元じゃなくて、もっと根源的なものに”執着できる”ことがどれだけ大切なことか。インドはそんなところに、まだ、いるような気がする。うぉー!って。素晴らしい。

案の定、お土産売り場には、黄金の象があったりと期待を裏切らない品揃えが。意味不明という意味が心地よいんですよね。

思い出をジングルにつらつら書くのも悪くないかな。残り2、3回になって参りました愛知万博の巻。だらだら続いてます。


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