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食べ物と色の関係。 [雑記]

色っていうものが人に与えている影響は大きくて。視覚的なものにいかに苛まれながら自分達は生活しているのかと考えます。

 

昔のテレビで、部屋中のもの、テーブルからカーテンから床から壁から、そして食べるものから全てを「赤く」した部屋と「青く」した部屋に、二人の被験者に入ってもらい、その食事の様子を見るという実験が行われていました。食紅で色を赤/青くした食べ物だけじゃなくて、周りの色が人に及ぼす影響を調べるといった実験で。で、赤い部屋に居た場合の方が、食べ物が残らなかったという結果だったんですが。こんな実験ならあるある大辞典や試してガッテンで散々されてきているような気がするんですけどね。

そうして、人はいかに目で食事をしているかがよく分って。それと同時に、料理は目で楽しむもの、五感で楽しむもの、ということがより顕著になる。上の実験はその視覚だけをしているみたいですが、厳密には、赤や青の塗料の匂いなんかが関わってきているはずで。舌触りや味に至っては、はっきりと違いが出てきているはずです。

とすると。

料理は眺めたり、触ったりすることだけで消費できるのかもしれない!と一つ思いついてしまいました。「食べない」料理。「食べられることを前提としない」料理がこの世に存在してもいいんじゃないでしょうか!なんて少し考えるわけです。


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失われてゆく記念日たち [雑記]

やっぱり体育の日は10月10日がいい!という人の統計なんかが2、3年前にとられていましたが。ハッピーマンデーは本当にハッピーなのんでしょうか。その時取り上げられていたのが、○○成人さんという人で、「成人の日に生まれたから成人という名前になったのに、成人の日が動いてしまったらこれから自分はどうすれば…」みたいな話で、確かにもう、実際の成人の日が何日だったか忘れてしまっている人も多いと思います。

実際の祝祭日が「何日であったか」ということは、確かにそれほど重要ではないかもしれませんが、それによって象徴されていたものが剥奪されていくのは、やっぱり悔やむべきことなんじゃないかと。同時に、季節感が暦の上からも、肌に感じる部分からも失われていき…。

逆に!ポジティブに考えると、何年かに一度、そういった記念日たちは元の暦に帰ってきます。その時に「より」そういった記念日が意識されるということが起こるわけで。緊張と緩和にあてはめて都合よく考えると、「ああ、やっぱり体育の日が10月10日だとホッとするな。」なんて風に思えるだけで、少し得しているのかも知れません。騙されてるのかなあ。

現実的なことを考えると3連休は確かにいいのかもしれませんが、火曜とか木曜なんかが休みでもいいじゃないですか。。。不条理な休み、無意味な休み、そういったものが与えてくれる休息みたいなものを、もっと大切にできたらいいんですけどね。

さて、今日は「目の愛護デー」ですね!


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余地余地 [雑記]

そこに余地が残っていること。余地と言うのは誰のために残されているのかということ。それを考えてみると面白かったりして。何か一つのもの、ことがあって、それを見た人なり聞いた人なりが想像する余地みたいなものがしっかりと残されていないと、面白みがないような気がします。人であったり、作品であったりにしても。

 

教育なんかの現場ではこれが重要な気がして、完璧な先生なんかに担任されてしまうと、そこには余地がなくなって、生徒が伸びないんじゃないかなーとか思うんですよね。特にゆとり教育なんてもののせいで、教師が授業に対して色々考えられてしまったことは、生徒の余地みたいなのを奪ってしまったように思えます。教える内容が貧弱で、「そこをいかにきちんと教えるか」なんかに情熱を注がれてしまうと、派生的な部分とか、自分で発見することの面白さなんかが、もう既に表されてしまっていてつまらない。

そこにどうやって余地を残しておくか、それを考えないでも余地を残さざるを得ないように作られていた指導要領が、迷走しているんですよね。教育だけじゃなくても余地は残さなければならないんじゃないでしょうか。


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例えば誰か一人の命と。 [雑記]

例えば誰か一人の命と、引き換えに世界を救えるとして、僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ。なんてミスチルは歌っていますが。愛すべきたくさんの人たちが、僕を臆病者に変えてしまったんだ。

それはそれで一つ、そうやって自分の周囲との関係性に思いを馳せたりするのも良いことなんですが。これを逆に考えてみること。

例えば誰か一人の命と引き換えに、世界が救われる。これはすなわち一人が確実に死ねるということになるんじゃないかと、思うわけですよ。確実に何のしがらみもなく、死ぬことに理由が出来る。もし実際にこんなことがあったら、一人の命と言わず何人もの人が死にたがるでしょう。もちろん全員が全員なんてわけじゃないですが、一つ使命を負えるということ、理由が存在するということで死が肯定されれば、喜んで命を落とせる人がたくさんいる、と思います。

「死んでお詫びを致します」と言っていた時代、日本人は死よりも恥に重さを感じていましたが。死ぬことの価値は必ずしもその人の価値に因るんじゃなくて、その死自体が持っているものに起因するのかもしれません。簡単に死ねない人は、その人自体の理由、意味も少ないのかもしれない。


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人間力とは何か。 [雑記]

人間力人間力とよく言われますが。何なんでしょう。

日本人の悪いところで、よく分からないものをとりあえずまとめてみようと新しい名前が出来る。人間力。生きていくために必要な力だとかなんとか、読み書きそろばんに加えて総合学習の時間で子供たちに学ばせるべき力だとか。島田検定やIQサプリなんかもそうなのかもしれないですね。そういうところでの能力。それはもう”そういうもの”でいいのに、わざわざ人は人間力なんて言葉を使いたがるようで。

人間力とは何か。それは「人間力って何?別にわざわざそんな言葉を使わなくても…。」と思える能力のことじゃないんでしょうか。人間力人間力と声高に叫ぶ人には、人間力が欠如しているんですよ!

あれ?


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防災訓練中継㊥ [雑記]

地元のテレビで、なんと防災訓練が中継されていました。これがまたとてつもなく面白いものでして。

記者「さて、今回はどういった訓練をされるんですか?」

消防員「はい、今回は高い建物における災害を想定して訓練を行います。」

記者「具体的にはどういったものですか?」

消防員「はしご車を用意しまして、救助、そして消火作業へと進めて行きます。」

そしていっせいに伸びるはしごたち。天まで届くかのように…。

 

そうして画面に映し出されたのは、3階建ての建物。。。めいっぱいまで伸びたはしごがむなしく空に映えています。むしろはしごを使わないほうが救助しやすそうな建物で。

記者「今回は高い建物という想定での訓練でしたが。」

おっちゃん「まぁ、そやね!高い建物言うても、この辺に高い建物なんてあらへんからね!あんまり実感湧かへん言うたら怒られるけど、まぁはしごがあれだけ伸びるっていうのが分かったし、よかったです。」

記者「ボク、消防車見てどう思った?」

少年「かっこよかった!」

記者「大きくなったらなんになりたい?」

少年「サッカー選手!」

以上、近江八幡市防災訓練の様子をお伝えしました。


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日本の歴史。 [雑記]

残り15分で戦争をどうやって描くのかな…、との期待とは裏腹に、スタッフロールに重ねた映像の羅列。やっぱり戦争が関わるだけで右翼左翼じゃないけれど、そういう政治的なり何なりのものが組み込まれてしまうことを象徴しているのかもしれません。。。下手に戦争の様子を描くと「これは中国側の立場を無視している。」だとか、「○○問題をこう解釈している点からすると、このテレビ局は○○な立場なんですね。」だとか。そういう部分で戦争のことを割愛したんでしょうかね。ただ単に、やりつくされてるから、って理由だけかもしれませんが。

横で母親が「この辺を一番学ばせなきゃあかんのちゃうん?」とぽつり。難しいものですね。日本はこれからどうなっていくんでしょう…、という問題提起と共に、やっぱり最後はボブディラン!もうこの辺りが日本人ぽくっていいですよね!「まぁどうなるか分からないけど、風にまかせて行こうよ。」なんて。せっかく温故知新したのに、風に踊らせてどうするんですか。

それが日本人。鉄腕DASHでそんな曲が。


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秋の夜長は苦しむものとみつけたり。 [雑記]

右手に持った菜箸で油の中の唐揚げを突きつつ、一つ皿に取った鶏肉を弟が味見する。クッキングペーパーを取り出して飛んだ油を拭いて。網戸越しに見た外は赤とも青ともつかないような薄暗い色で、カーテンを閉めるか迷う。リビングに寝転んでプレステ2に対峙するもう一人の弟が、トルネコでドラゴンキラーを拾い喜ぶ。つけたばかりのクーラーはまだ部屋の蒸し暑さと戦う。電話が鳴る。口の中に鶏を入れたまま電話口に向かう弟の肩越しに見えたテレビから、二階堂のCM。

私は私のままで、ここにいる。

顔を赤らめた祖父、洗濯物をたたむ祖母、いつも帰りの遅い両親とその電話に応対する弟。ゴミ箱に投げ入れたクッキングペーパーは、卵の殻と一緒に白さを失っていく。そうして突然何かがこみ上げてくる。

 

と、情景を書き出してみたんですが。そう、”何故か”泣きそうになるって時があります。無常とか、多分冷静に分析なりなんなりをすると原因なんてものはすぐに分かるんでしょうけど、でもそれじゃあ面白くない。「ああ、自分はこれこれこういう理由で泣きそうになっているんだなぁ。」という所に何があるのか、それをもっと深く、深く自分をえぐってまで考えてみることが面白いんですよ。ただの無常じゃなくて、悔しさだとか自分のやましさだとか打算だとか、そういう部分を突かれているからこそ、泣きそうになるわけで。

秋はそういう時間なのかもしれません。


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blogとはどういうものなのか。 [雑記]

空が全然高くないんですよね。秋なのに。

こうやって、何も書くことがないということがどういうことなのかを考えたりしています。日常のちょっとした変化だとか、○○だと思ったなんて日記的なことだとか、目標とか、悩みをちょっと書き出してみたりだとか、そういうところをblogの本質とするか否かによって、たぶんblogは色んなタイプに分けられると思うんですよね。

で、日記を公開するということ、いや、日記じゃないんですけど、多分多くの人は日記的に付けているこのblogというもの、が、どういう意味を持つんでしょうか。自分の唄だとか、絵だとか、そういったものを世間に公開して、認知されたいという欲望はすぐに理解できるんですけど、blogに関しては別に自分の文章力を顕示したいわけでもないし。。。自分の感性なりなんなりをアピールしたいんでしょうか。世界観が世界感へと変化しつつある中で、自分の感じたことを記すことによる充足を、僕自身も得ているのかもしれません。「夏の終わりを私はこう感じた、どうだすごいだろう。」的な充足を。それはまぁ自己満足に摩り替えて差し支えないわけで。。。難しいですね。

で、おそらく多くのblogがそういうことになっていると思うんですね。顕示なんてのは別のところにあるとしても、そうやって自分の感性なりなんなりを確認する作業がblogでは行われているんではないかと!

んでも、「そこに何もない」ってのが多すぎるような気がするんですよね。そうやって書いて、それを見た人がどう感じるか、それは人それぞれだよね。って片付けるんじゃなくて、blogはそれを見る人がいるという前提に成り立っているはず。でもって、少なからず書いている本人も意識しているはずなのに、旅の恥は掻き捨てみたいに、「見てるのは見ず知らずの人だからいいや」なんて書き方が出来てしまっている。みっともなさの欠如まではいかなくても、自由に発言できることの錯覚みたいなのがblogの中で起こっているような気がする。

「今日の晩御飯はシチューです☆案外上手くできました!」なんて書いてあっても、別にその人の晩御飯が知りたいわけではないし、何をしただとか、そこに本質はなくて。そうじゃなくて、そこに何かしら見た人が感じられる、感じるべきものがないと、ただの交流ツールにしかならなくなるんじゃないでしょうか。もちろんその本人がいることは大事なんですけど。

そうするとやっぱり行き着くのが「blogは存在の証明につながる」なんてベタな答えなんですよね。ケータイが上手く人の心の隙間にはまったように、blogはそこからまた違う方向へと伸びた枝葉になっているのかもしれません。でもただの証明グッズじゃないと思うんですけどねぇ。その段階で書いていても、成長もしないし何も面白いことは起こらない。もちろん続けていくことで変化は起こるけれど、意識していないと気づけない。そういうことを考えるものとして、blogを書こうと思う。

なんてこと、別に誰も知りたくないですね。そうやって「こうあるべき」とすること自体がblogの本質を捉えられていないのかも!そうやって主張するだけで何か変わるのかなぁ。「結局なんでもいいんじゃん」というところを敢えて考えること。修行が足りませんね。


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都会は縦に。田舎は横に。 [雑記]

都会は縦に、田舎は横に、広いんですよ。

その、都会と田舎を行ったり来たりするなかで見えてきたもの、それが縦と横という人間の視界に訴えかけるものの差なんですよね。都会には圧迫感がある、とかそういう単純な狭さでの意味ではなくて。

 

「そびえる」の項にも書いたみたいに、それがそびえているかどうかは高さの問題じゃないんですよね。で、人がなんて狭い視界しか持っていないのかと痛感させられるのが都会と田舎という両極なんですね。どこをもって都会とするか、田舎とするかは置いておいて。

人がパッとその建物なり景色なりを見たとき、覆いきれる範囲はとてつもなく狭いんですよね。「見て」いなくても見えている部分もあるんですが、そこも含めたところで視界で追いきれる範囲なんてものは世界にくらべれば微々たるもので、人は結局のところ、そのシーンの(時間は関係なくしてですが、)世界を切っているんですよね。限界点を定めている、というか定まっていて。そうして追いきれないもの、それがどこにどうやってはみ出ているか、その違いが都会と田舎に現れてくるわけです。如実に。

縦、と書いたように、都会は縦に無限の広がりを持っているように感じられるんですよね。ある空間に突然自分が置かれた時、首を上に向けるという作業をしないと建物は追いきれなくて。首を上に向けたところで追いきれない場合も往々にしてあるんですが、そうやって縦の運動、縦のパノラマ性を都会は持っていて。そして横への広がりはというと、乱立する異物によってすぐに寸断、分断されてしまう。実際は横の広がりも追いきれていないにもかかわらず、そう感じさせない横への閉塞性を都会は持っているんですよ。地下鉄なんかでも、線路は暗闇へと無限に続いているように見えるんですが、それは結局駅という分断された場所の中での広がりであって、真の意味でのパノラマにはならなくて。コンクリートや鉄の塊のような物理的理由以外でも、都会は常に縦の広がりを持っているようです。上下へと成長せざるを得なくなったということでしょうか。

対して、田舎は横に追いきれなくなるんです。360度自分が回ればそれでいいわけなんですが、でも馬じゃあるまいし、すべてを視覚の中に収めるのは不可能です。高い建物がないから、じゃなくて、遠くまで見渡せることによって可能になる横への広がり、パノラマ性。寸断分断されることなく永続的に横に広がっていく景色は、写真なんかで到底収めることができないんですよ。

もはや定点カメラと化した自分のデジカメに映るのは、それこそ分断された映像なんですけど、でもそれをリアルに見たとき、空間を感じた時、その横への広がりは全く、全然追いきれない。時間とか光とか、そういう環境にもよるけれど、一回的な広がりみたいなものを瞬時に感じ取れて、でもって広がりを終えないことに「苦笑い」して。田舎は横にそびえていると言えるかも知れない。

いやでも、そんなに差はないんですけどね。

強制力みたいなのは、ある種屈するべきなのかもしれないですね。


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