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松本人志という犯罪者 [雑記]

そういう意味では、松本人志はとんでもない犯罪者かもしれない。

 

昨日の笑点前座、三味線漫談を聞いていてそんな事を思ったり。「芸」としての笑いが全てだった頃、何度聞いても笑えるということが第一とされていたのはどの本を読んでも大体そうで、エンタツアチャコさんが出てきたことすら新しい世界の幕開けだったと。漫才というジャンル(あえてジャンルと言ってしまいますけど)の上で「芸」を確立した功績は計りしれなくて、落語とは違った創作芸としての笑いの枝を一つ伸ばしたと言っていいでしょう。それを固めたのがいとしこいしさんであり、第一部が完結したと言えるかも…、なんてうちなんかが言っていいのか分かりませんが。

で、ここからは失礼にあたるかもしれないんですが。。。カウスボタンさんがジーパンをはいたところで、それは「芸としての漫才」の一本の枝からもう一つ枝を出しただけじゃないかと思うんですね。源流は落語と同じ一本の木であって、その先の漫才の枝の上で、また先の方を別方向に伸ばしていく取り組みなんじゃないかと。どこまでがそうであるかは難しいところなんですが。

そして紳助竜介、オール阪神巨人が…と、B&Bもツービートもそうで、そこから一つ革新的な核心的な確信的な変化を起こしたのが松本人志なんじゃないかと。別にダウンタウン信者じゃないのでそれは先に言っておきます。

発想で笑わせること、それはもちろん落語の源流からずっと流れ続けているもので、考えて考え抜いて一つのネタとしてお客さんに提供される「発想」自体は変わっていないんですよ。松本人志はその伝え方、発想を発信する方法を変えたんです。紳助さんや阪神巨人さんがやったのはある種のキャラ付けによる転換だと思うんですよね。けっして上辺の変化という意味ではないですよ。

極めて一回的な物で良くて、それが練られている必要はあまりなくて、突拍子もない発想であればあるほど良くて、ポンッと世界に放り出されたときそれがとてつもない笑いを作り出す。かもしれない。ということを、言い方は変ですが「信じて」続けたことが重要なんだと思うんですよ。それらは今までの笑いの創作の場で行われてきていたことを全て曝け出す行為でもあって、ただ表に出すだけなら誰でも出来たはずなんですね。でもそれだけだったら客が変化できない。全てを曝け出すという行為は要は未完成なものを発表することで、総じて面白くないことが多い。もちろん松っちゃんの全てが面白かったわけじゃないだろうけど、世間の笑いの形態を変えるには十分すぎるくらい面白かったということが、今の日本人の笑いの体系を見ても明らかだと思います。「笑いのレベルを上げた」と紳助さんは言ってらっしゃいますが、レベルが上がったとは、芸人が創作段階で「これはお客さんには分からないだろう」と切り捨てていた物を理解できるだけの地盤が出来たと解釈していいんじゃないでしょうか。

落語と漫才の枝が伸びる前の木から新たに伸びた発想という枝。この方向に日本の笑いがシフトしたために、日の目を見なくなった落語や漫談が今テレビではほとんど見られなくなってしまって。別に悪いことではないんですが、芸としての笑いもその発想の段階を経た上での発表であって、何ら遜色は無いはずで面白さは変わらないはずなんですけどねぇ。発想だけで勝負している笑いというのは、無限にバリエーションがあるから聴衆に選択の自由がある。だからそっちへ流れやすくて。回顧主義じゃなくて、リアルな問題として「何度見ても面白い」という芸な笑いが作り出されていない現状を見ると少し不安になります。

そうして出てきた松本人志に憧れて、発想で勝負している日本の笑いの現状を見ていると、大量生産されているようで、差異を消費しているようで、なんとなく寒いと思うのは私だけでしょうか。

松本人志は悪くなくて、でも犯罪者なのかもしれない。

これまだ全然意味分かんないですよね。追記します。


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コメント 1

t_f_o_a-jyuunoshima

ブームに乗っかって出てきた実力もなんもない若手、そしてそのミーハーなファンが多い今の世の中で本当の笑いを理解している(自分と同じ意見なだけか・・・?)人がいてくれてとてもうれしいです。。。
by t_f_o_a-jyuunoshima (2005-07-18 20:31) 

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